インペリアル08

インペリアル08

  8 母と娘 

「はい、そうそう。よくできたじゃない。昭《あき》子《こ》ちゃん、よく練習してるわ」

 

 賞《ほ》められていやな子はいない。——本当のところは、毎日どころか、三日にいっぺん、十五分も練習しているかどうかだろうが、それでもニコニコしている。

 

「もうちょっとね。この左手の方が、どうしても遅くなるでしょ。それに気を付ければ……。ウーン、ま、いいか。おまけしてあげる!」

 

 一曲、「マルをもらって」、子供の顔にはホッとした表情がうかがえる。

 

「はい、それじゃ、また来週ね。この次の曲は、前にやったのとよく似てるから、自分で練習してみてね」

 

 ろくに先生の言葉なんか聞いていない。

 

 手早く楽譜をバッグへ入れ、

 

「さよなら!」

 

 バタバタと玄関から飛び出して行く。

 

「車に気を付けて」

 

 と、宏《ひろ》美《み》は声をかけた。

 

 聞こえてはいないだろうが、ともかく、つい、そう呼びかけてしまうのは、自分が母親になってからのことである。

 

 ——さて。この後は一時間空いている。

 

 次の生徒は、中学生の女の子で、いつも全く練習して来ないので、一向に先へ進まないのが悩みの種だった。

 

 それでいて母親からは、

 

「ちゃんとお月謝を払ってるんですから、真剣に教えて下さい」

 

 と文句を言われる。

 

 教師のできることなど、大してありはしない。本人が好きで、練習すること。それしかない。

 

 しかし、こんな所で、〈ピアノ教室〉を開いている限り、そんな生徒でも、大事な「お客さん」である。

 

 ともかく——この間に夕ご飯の仕度をしなくては。

 

 宏美は、茶の間を覗いた。早《さ》苗《なえ》が、昼寝から覚めて、指をしゃぶりながら、絵本を見ている。

 

「あら、起きたの?」

 

 と、宏美は笑顔で言った。

 

「ママ、おやつ」

 

 と、待っていたように、宏美の膝《ひざ》にのって来る。

 

「はいはい。何かあったかなあ……」

 

 早苗の好きなゼリーが冷蔵庫に入っている。

 

「あ、これがあった! 食べる?」

 

「ウン」

 

 早苗にスプーンを渡して、

 

「こぼさないでね」

 

 と、頭を軽くなでてやって、台所へ立つ。

 

 ——早苗が生まれて、宏美の生活は一変した。もちろん、忙しさは何倍にもなり、生徒をとる数も、減らさざるを得なくなった。

 

 しかし、それでも宏美は幸せである。充実していた。

 

 あのころ……ピアノがイコール「人生」そのものだったころに比べて、もちろん、比較にならないほどささやかな幸せかもしれないが、ともかく、ここにはずっと「人間的なぬくもり」があった。

 

 夫——松《まつ》原《ばら》紘《こう》治《じ》と結ばれるまでの、嵐《あらし》のような日々の後だけに、今の日々の平穏が、退屈でもなく、幸せと感じられるのかもしれない。

 

 冷凍しておいたシチュー。——これで我慢してもらおう。明日はレッスンのない日だから、買物に行ける。

 

 後はミソ汁を作って、サラダ……。もう若くはない夫の体を考えると、できるだけ野菜をとらせておきたい。

 

 電気釜《がま》のスイッチを入れた。——これで、夫が早く帰って来てくれるといいのだが。

 

 玄関のチャイムが鳴った。

 

「はあい」

 

 公団住宅の中層の中古を手に入れたこの家は、手狭ではあるが、建物がしっかりしているので、ピアノのレッスンをしても、下の部屋から苦情が来たりしないのが何よりである。

 

 もっとも、そのために、下の部屋の小学生の女の子には、タダでピアノを教えている。

 

「——はい」

 

 と、玄関へ出ると——。

 

「鍵《かぎ》もかけないの?」

 

「お母さん……」

 

 と、宏美は言った。「生徒が帰って、そのままだから……。大丈夫なのよ、いつも出入りしてるから」

 

「そう」

 

 宏美は、

 

「上って」

 

 と、スリッパを出した。

 

 買って来たばかりの新しいスリッパである。

 

 和《わ》田《だ》涼《りよう》子《こ》は、上り込んで、

 

「今はレッスン中?」

 

 と訊いた。

 

「ううん。そうじゃないの。今は空き。——早苗、おばあちゃんよ」

 

 早苗は、この見るからに厳格そうな祖母に、恐れを感じている様子で、

 

「おばあちゃん……」

 

 と、小さな声で言って、母親のスカートのかげに隠れている。

 

「また大きくなったわね」

 

 和田涼子も、孫を見ると笑顔になる。

 

「もう、ずいぶん見てないでしょ」

 

「そうね。一年くらい? もうじき三つでしょ」

 

「うん」

 

「大きくなるわけよね……」

 

 と、和田涼子は茶の間へ入って、座布団に座った。

 

「ママ、ピアノいじってていい?」

 

 と、早苗が言った。

 

「いいけど、お手々を拭《ふ》いてから」

 

 宏美は、タオルで、早苗の手をていねいに拭く。

 

 早苗が隣の部屋へ駆けて行くと、すぐにポン、パン、と鍵《けん》を叩く音が聞こえて来る。

 

「——お茶を」

 

「ありがと」

 

 宏美は、母の髪にずいぶん白いものが目立つのに気付いた。

 

「どうかしたの?」

 

 と、宏美は言った。「具合でも——」

 

「聞いてないの? 影《かげ》崎《さき》先生のこと」

 

 宏美は、その名前を久しぶりに聞いてハッとした。

 

「先生が……」

 

「倒れたの。演奏中に。知らなかった?」

 

「倒れた?」

 

 宏美は一瞬青くなった。「知らなかった……。新聞見てる間もないの」

 

「一応命はとり止めたらしいけど、心臓ですって。当分入院の様子よ」

 

「そう……」

 

「松原さんは知ってるの?」

 

「あの人? さあ……。そういえば、ゆうべ遅かったけど、ずいぶん。朝はあわただしく出て行くから、そんな話する暇なかった」

 

 宏美はそう言って、「お母さん、私も〈松原〉よ」

 

「そうだったね」

 

 母の涼子は、少し冷ややかな口調になって、「紘治さん——だっけ。もう五十?」

 

「まだ四十九よ。なったばかりだわ」

 

「四十九で、子供が三つね。——大変だね」

 

「お母さん、やめて……。そのことはもう——」

 

「分ってるわよ。でもね、あんたがこんなアパートで、近所の子供相手にバイエルだのブルグミュラーだの教えてるのかと思うとね……。こんなことさせるために、あんたを音大へやったわけじゃなかった」

 

「それを言いに来たの?」

 

 と、宏美は少し挑むような口調で、言った。「夕ご飯の仕度をするの。あと四十五分もしたら、次の生徒さんが来るわ」

 

「宏美」

 

 と、母が言った。「今日、電話がかかって来たの。あんたの連絡先を知りたいって」

 

「何の用で?」

 

「今井さんって、憶《おぼ》えてる?」

 

「今井?」

 

「ヴァイオリンの。ほら、影崎先生の上の娘さんと——」

 

「ああ、今井君か。今井 初《はじめ》君でしょ」

 

「そう。今、そのみさんと暮してるんですって」

 

「そのみさんと?——結婚してるの?」

 

 と、宏美は訊いた。

 

「いいえ。知ってるでしょ、そのみさんのことは」

 

「うん……。じゃ、今は今井君なのね」

 

 今井は宏美より大分後輩である。ここのところ、名前をあまり見ない。

 

「今、何してるの、今井君」

 

「ちょっと鳴かず飛ばずね。——で、今度、Tホールの小さい方で、室内楽をやるんですって。ピアノ五重奏——ドヴォルザークに出るはずだったピアノの人が、突然ドイツへ留学しちゃったとかで。代りの人を必死で捜してるの。で、あんたにどうかって訊いてみてくれってことなの」

 

 涼子の早口な言葉は、途中で遮られることを恐れているようだった。

 

「そんな……。無理よ」

 

 と、宏美は首を振って、「もうずっと本格的に練習なんかしてないわ」

 

「分ってるけど……。もちろん、お金になる仕事じゃないわ。でも、あんたが少しでも……」

 

 言いかけて、母の声が小さく消える。

 

 宏美は、母がまだ夢を捨てていないことを知った。——娘が、いつの日か一流のピアニストとして、ステージに立つ、その夢を。

 

「とても無理。そう言って」

 

 と、宏美は言った。

 

「でも——」

 

「無理よ」

 

 宏美の言葉に、母親は諦《あきら》めた様子で、

 

「そうだろうとは思ったけどね……」

 

 と、ため息をついた。「一応、連絡先を置いてくわ。——今井さんのじゃなくて、そのコンサートのマネジメントをしてる人の所ですって。今井さんは今、あの人と一緒だものね」

 

 メモ用紙がテーブルに置かれる。——むだよ。持って帰って。捨てられるだけなんだから。

 

 宏美はそう言おうとして、何とかのみ込んだ。それだけきつい言葉を母に向って言うためには、宏美にも後ろめたいところがあったのである。

 

「——いつから幼稚園?」

 

 と、母が話題を変えた。

 

 

 

 宏美は、十分遅れて来たその中学生の女の子が、いつもの通り、少しも練習しなかったことを、すぐに見ぬいた。

 

「ちゃんとやってんだけど」

 

 と平気で言っても、プロの目はごまかせない。

 

「はい。このくり返しの所から、もう一度」

 

 辛抱強く、宏美は言った。

 

 実際、近所の子供たちを教えてみて、宏美はずいぶん辛抱強くなった。教える身にとって、生徒が練習しないで来ることが、どんなに腹立たしいかも、よく分った。

 

「——ほら、よく見て!」

 

 と、宏美は言った。

 

 同じところで、もう五回も引っかかっている。

 

「面倒かもしれないけど、くり返してけいこするしかないの。分る? 指が憶えるまでやるのよ」

 

 注意されるとか叱《しか》られるということに、今の子は慣れていない。すぐにプーッとふくれてしまうのである。

 

 叱る方が悪い。教え方が悪い。——何でも悪いのは「自分じゃない」のである。

 

「ね、先生」

 

「なに?」

 

「先生の旦《だん》那《な》さんって、凄《すご》い年《と》齢《し》とってんですって?」

 

 宏美は一瞬絶句した。

 

「そんなこと、あなたと関係ないでしょ」

 

「聞いたよ、ママから」

 

「何を?」

 

「よその旦那さん、とっちゃったんだって? やるじゃない、先生」

 

 宏美は、怒りがこみ上げて来るのを、必死で抑えた。——この子の母親は、この辺では有名な「実力者」である。

 

「そんなこと、どうでもいいの。はい、もう一度」

 

「もう飽きたよ!」

 

 と、女の子は伸びをして、「ね、先生、弾けんの?」

 

「何を」

 

「これ。先生弾くの、聞いたことないなあ。ママが言ったよ。『あの先生、本当はうまくないんじゃないの?』って」

 

 どこまで本当か。しかし、あの母親なら言いかねない。——宏美は、目の前で、人を小馬鹿にしたような顔で笑っている女の子を、ひっぱたいてやりたかった。

 

 自分が習っていた先生だったら——影崎多《た》美《み》子《こ》ほど偉くなくても——とっくに一発くらっていただろう。

 

 いやならやめればいい。——親の意志で無理に習わされている子には、宏美も同情していた。そういう子は、少々できが悪くても、あまり叱らないようにしている。

 

 しかし、この子のように「練習しないけど、うまくなって、いいカッコしてみたい」という子には猛烈に腹が立つのだ。

 

「どいて」

 

 と、宏美は言った。

 

「え?」

 

「どいてごらんなさい」

 

 女の子が立つと、宏美はピアノに向った。そして——猛然と弾き始めた。鍵《けん》盤《ばん》が揺らぐかと思うほどの力で、叩きつけ、指は目にも止らぬスピードで走った。

 

 びっくりした早苗が覗きに来たくらいだ。中学生の女の子は、その凄《すさ》まじい勢いに、呆《あつ》気《け》にとられて立っていた。

 

 ほんの何分かだろうが——小さなレッスン室の中は、弾くのをやめてもしばらく、ジーンと音が鳴り響いているようだった。

 

 宏美は立ち上って、

 

「もう、帰っていいわ」

 

 と、言った。

 

「でも……」

 

 レッスンの時間は、まだ十五分も残っている。

 

「練習して来なかったら、一時間やっても同じ。来週は少しでも練習してらっしゃい」

 

「はい……」

 

 女の子はすっかり呑《の》まれてしまっている。

 

「さよなら」

 

「楽譜、忘れたわよ」

 

「あ、はい!」

 

 あわてて飛び出して行く生徒の後ろ姿を見送って、宏美は息をついた。

 

 体が熱い。久しぶりの経験だった。

 

「ママ……」

 

 と、いつの間にか、早苗が足下に来ていた。

 

「早苗ちゃん。——どうしたの?」

 

「ううん……。大っきな音だったね」

 

「そうね」

 

 と、宏美は笑った。

 

 心から笑った。久しぶりの、爽《そう》快《かい》な気分。

 

 思い切り弾いた、という快感が、宏美を捉《とら》えていた。

 

 宏美は、茶の間へ入って、自分でお茶を飲んだ。電話が鳴る。

 

「——はい。——あなた。今夜は?」

 

「あと三十分くらいで出られると思う。一緒に食べられそうだな」

 

 と、松原紘治は言った。「早苗は起きてるか?」

 

「ええ。代るわ。——パパよ」

 

「もしもし、パパ?——うん……。うん……」

 

 早苗が大きな受話器を、持て余しそうにしている。——宏美は、ふとテーブルに目をやった。

 

 母の置いて行ったメモ。

 

 ドヴォルザークのピアノ五重奏か。——宏美の好きな曲だった。

 

 でも……。あんな子をびっくりさせるぐらいは簡単でも、ホールで、一般の聴衆を前に弾くというのは、全く別のことである。

 

 とても無理。——とても。

 

 宏美は、そのメモを手にとった。ギュッと握り潰《つぶ》して……。

 

 しかし、捨てなかった。もう一度、しわをのばすと、

 

「どうでもいいけど……」

 

 と、呟《つぶや》きながら、ていねいに二つに折って、引出しへ入れたのだった。

 

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