燃えよ剣20

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二帖半敷町の辻
その|こと《ヽヽ》が、済んだ。
歳三は、佐絵に背をむけてすわりなおしている。佐絵は背後で、身づくろいをしている様子であった。
(むなしすぎる。……)
歳三は、黄ばんだ畳に眼を落した。自分に対し、なんともやりきれぬ気持であった。
(くだらん)
自分が、である。
せっかく猿渡家の佐絵と再会したのに、こんな破れ畳の上で情交をいそぐとは、なんといううそ寒いことだ。
かつて歳三は、豪奢な情事にあこがれていた。情事は豪奢でなければならぬとおもっていた。つねに、武州では、貴種のむすめを恋《こ》うた。佐絵もそのひとりだった。
そのふたりが京で再会したというのに、この逢瀬《おうせ》は、馬小屋で媾合《こうごう》する作男の野合にひとしい。
佐絵も、みじめである。犯されるようにして歳三の体重を受け入れつつも、佐絵はみじめな思いをしたろう。
一瞬で、過去が褪《あ》せてしまった。
(過去の綺羅《きら》を褪せさせぬためには、別の場所を用意して逢うべきであった)
過去には、それだけの用心と智恵が必要だと思った。
(たのしくはない)
気持が、みじめになっただけのことではないか。
歳三は、脇差から、小柄《こづか》をぬいた。爪を削りはじめた。できれば、指を突き破って血を出してみたい衝動がある。
「土方さま」
佐絵はふりかえった。
彼女は、そんな呼びかたをするようになっている。やはり、武州日野宿石田在の薬売りの歳、というより、京を震撼《しんかん》させている新選組副長としての新しい印象が、佐絵の眼には濃いのであろう。
「なにかね」
「おかわりになりましたのね」
ちょっと、侮蔑《ぶべつ》するようにいった。佐絵も、はげしい失望があったのだろう。
「自分では変わっていないつもりだが」
「いいえ、別人のように」
佐絵は、おくれ髪をなでつけた。
「おれのどこが変わった」
「全体に」
「わかるように云ってくれ」
「あのころ、私どもの情事《なか》は、犬ころがじゃれあっているように楽しゅうございました。土方さまも、いえ歳さんも、犬ころみたいに無邪気だった。いまはちがいます」
「どこが?」
佐絵にも、わかるまい。歳三にもわからぬことだった。
(が、考えてみれば——)
歳三は、爪を一つ、削《そ》ぎ落した。
(おれはかつて、佐絵の身分にあこがれていた。それが、万事|そぶ《ヽヽ》り《ヽ》になって、佐絵にはういういしくみえたのだろう。が、いまはかつてとは、おれの立場がちがう。たかが武州の田舎神主の娘を、貴種だとはおもわなくなった。なるほど、かわった。これは非常なかわりようかもしれない)
爪をまた、削ぎ落した。
(痴愚の沙汰だった。過去は想いだすべきもので、抱くべきものではなかった)
「あんたも、かわった」
「それは別人におなり遊ばした土方さまの眼からみれば、変わったようにはみえましょうけれど、佐絵は、むかしのとおりでございます」
(ちがう)
佐絵は、あきらかに別人になっている。第一、公卿のお屋敷奉公をしているというが、|なり《ヽヽ》はむかしどおりの武家風だし、着物のすそが垢《あか》じみていて、なんとなく暮らしにやつれている、という風情《ふぜい》だった。
「やはり、九条家に勤仕《ごんし》しているのかね」
「ええ」
「うそだろう」
佐絵は、はっと顔を白くした。
(うそにきまっている。なるほど京にのぼったのは九条家に仕えるつもりだったし、仕えもしたろう。が、なにかの事情で主家を出ていまは町住まいをしているにちがいない)
歳三は、小柄を左手に持ちかえた。右指の爪をきるためである。
(思いたくはないが)
歳三は、親指の爪に小柄の刃をあわせ、ぐっと力を入れた。爪が、はじけとんだ。
(佐絵どのは、体がかわっている。亭主か、情夫《おとこ》を持っているのにちがいない。様子をみれば、暮らしも楽でなさそうだ)
歳三は、佐絵をみた。
「御亭主は、長州人ではないのかね」
佐絵の顔色がかわった。
「逢わぬほうがよかった」
歳三は、笑った。
「きょうのことは、忘れます。——佐絵どのも」
忘れてくれ、と立ちあがった。男の身勝手かもしれぬが、歳三は、胸中にあるかつての猿渡家の息女の像をこわしたくはない。
障子をしめ、土間へおりた。
暗がりで履物をさぐっているとき、ふと表のほうで人の気配がした。隣家の者か、とも思ったが、習性で、そのまま路上に出る気はおこらない。
裏へ突きぬけ、裏の木戸をあけて、外へ出た。ここには、人影はない。
(ひょっとすると、わるい|ひも《ヽヽ》がついているのかもしれぬ。なにしろ公卿屋敷に奉公していたのだ。出入りの尊攘浪士もおおぜい居たろう。九条関白が失脚して洛南九条村に隠棲《いんせい》してからは、佐絵はその尊攘浪士のひとりと一緒になったのかもしれぬ)
歳三は綾小路を西へ歩きだした。仏光寺門前まで出て、駕籠をたのむつもりである。
(どんな情夫だろう)
歳三は、歩く。うずくような嫉妬があったが、歯の奥で必死に噛みころした。
むろん歳三は、かつて自分と情交のあったその女が、いまは勤王浪士のあいだで才女の名を売っている女丈夫になっていようとは、このとき、うかつにも露も知らなかった。
猿渡佐絵。
もとは九条家の老女。
いまは、宝鏡寺|尼門跡《あまもんぜき》の里御坊《さとごぼう》だった大仏裏の古家に住み、人に歌学を伝授している。
というのは表むきで、この里御坊は、諸藩脱藩の士の隠れ場所の一つであった。佐絵はかれらの考えに共鳴し、この古家を管理しながら、かれらを世話し、勤王烈女、といった存在になっている。その間、何度か男を変えた。土州藩士もいた。長州藩士もいた。かと思えば国許もさだかでない無頼漢同然の「志士」もいた。男を変えるたびに、かれらからの感化が、佐絵のなかで深くなった。
佐絵には旧主九条家の後《うし》ろ楯《だて》もある。屋敷づとめのおかげで、堂上衆への顔もきいている。浪士たちが公卿に会いたいというときは、仲介の労をとってやった。自然、浪士のあいだで重んぜられるようになった。
佐絵は、いまの境涯に満足している。国許の猿渡家に帰っても、すでに兄の代になっている以上、出戻りの妹のすわる場所がなかった。それよりも京がいい。毎日に、|はり《ヽヽ》がある。
(佐絵は、かわった)
歳三は、仏光寺門前の「芳駕籠《よしかご》」に入って駕籠を命じた。
芳駕籠の亭主は、歳三の顔を知っている。
「あっ」
と恐縮し、若い者を祇園まで走らせた。町駕籠は、江戸なら不自由しないが、京では、遊里の付近にのみ常駐させている。芳駕籠ほどの店でも、夜分は店には一挺もない。
その間、時間がありすぎた。
歳三は、かまちに腰をおろした。芳駕籠では、女房まで真蒼《まつさお》に緊張した顔で、茶の接待をした。
「むそうございますが、奥へおあがりねがえませぬか」
「いい」
歳三は、この男の癖で、ぶすっといった。取りつく島もない顔つきである。
「しかし、それでは」
と、夫婦がおろおろしている。新選組も、初期の芹沢のころは市人にただその粗暴を怖れられるのみであったが、最近では、京都守護職|御預《おあずかり》という一種の格式にずしりとした重味がついてきている。その副長といえば、もはや、いまの京では錚々《そうそう》たる名士である。とはいえ、歳三という男はいつも屯営内にいて、諸藩との社交は一切しなかった。市中、幼童でも、新選組副長土方歳三の名は知っていたが、顔、姿まで知っている者はすくない。そういう陰気で不愛想な印象が、かえって戦慄すべき名前として市中にひろまっていた。
芳駕籠の夫婦のうろたえにも、そういう先入主があるからだろう。
長い時間がたってから、歳三は、やっと口をきいた。
「亭主、すまぬが」
歳三の眼は、暗い土間を通して往来を見つめたままである。
「店を、人が窺《うかが》っているらしい」
「げっ」
「驚くことはない。どうやら私のあとをつけてきた男がいるようだ。すまぬが、内儀にでも御面倒をねがおう。表通りを一丁ほどのあいだ、様子を見てきてくれまいか」
「へっ」
亭主は臆病な顔をした。
が、こういうことになると、女のほうが度胸のすわるものらしい。眉のそりあとの青々した芳駕籠の女房が、
「見て参じます」
提灯をもって出て行った。
やがてもどってきて、
「竹屋町の角に二人。二帖半敷町のかどに三人、見なれぬご浪人がお居やすようで」
「五人」
「へい」
「多すぎるようだな」
歳三は、ちょっと笑った。
女房もつい吊りこまれて笑い、美しい|おは《ヽヽ》ぐろ《ヽヽ》をみせた。どうやら歳三に、好意をもちはじめているらしい。新選組副長といえば鬼のような男かと思っていたのが、案外、瞼の二重《ふたえ》のくっきりした、眼もとの涼しい男なのである。
「あの土方先生。なんならうちの若衆を壬生までお使いに走らせましょうか」
加勢をたのめ、という意味だ。その女房の袖を、亭主がそっと引いた。
(よせ)
という合図だろう。新選組に好意を示したとあれば、あとで浪士たちからどんな仕返しをうけぬともかぎらない。
「いい」
歳三は、また不愛想な表情にもどった。
やがて、駕籠が帰ってきた。
こういう垂れのあるのを江戸では四つ手駕籠というが、京では四《よ》つ路《じ》駕籠という。形は似ている。
「亭主、威勢のよさそうな若者だな」
「へい、丹波者でございますさかいな」
「丹波者は威勢がいいのか」
「まあ、上方《かみがた》ではそう申します」
「それは頼もしい」
歳三は、懐ろから銀の小粒をとりだして若衆にあたえた。
「こんな沢山《ぎようさん》」
「いや、とってもらう。ところで、私は歩いて帰る」
「へえ?」
土間で、一同があきれた。
「しかし頼みがある。私のかわりにそこの樽《たる》に水を一ぱい入れて鴨川まで運んでくれぬか」
「旦那。——」
芳駕籠の亭主には、歳三の頭のなかに描いたからくりが読めたらしい。
「こまります」
竹屋町の角に浪人が二人|屯《たむろ》している。樽をのせた駕籠を、新選組副長だと思って襲うだろう。若者は駕籠を捨てて逃げるからまず怪我はあるまい。しかし、あとで、そういう仕掛けに協力した、といって乱暴な浪士どもから尻をもちこまれるのは、亭主のほうである。
内儀も、歳三の考えがわかった。しかし亭主とは別の態度をとった。
「安どん、七どん。すぐ樽の支度をおしやす。なるべくお人を乗せているように重そうに担ぐのどすえ」
「へっ」
丹波者が駕籠を土間にひき入れ、水樽の用意をし、やがて、
「あらよっ」
とかつぎあげた。どうみても十七、八貫はあるだろう。
駕籠が出た。東へ。
すぐそのあと、歳三は軒下を出て、それとは逆の西へむかった。提灯はもたない。尾行者は、駕籠に注意をうばわれて歳三に気づかなかったろう。
十数歩あるいたとき、背後の竹屋町の辻とおぼしいあたりで、予期したとおり、
「わっ」
と駕籠をなげだす物音がきこえた。
(やったな)
歳三は、すでに、二帖半敷町の辻をすぎてしまっている。内儀の見たところではこの辻に浪人三人がいたというが、影はない。駕籠に誘いこまれてどこかへ散ったのだろう。
そのとき、
(来たか)
と歳三は、そこまで読みきっていた。すぐ、南側の家の軒下へ身を寄せた。
竹屋町から、ばたばたとこちらへ駈けてくる四、五人の足音がする。水樽とわかって、引きかえしてくるのだろう。
(無事、壬生へ帰れそうだ)
歳三は、出格子のかげで、からだを細くした。そこまでは、この喧嘩上手の男の読んだとおりであった。
が、その連中が、竹屋町と二帖半敷町の中間にある芳駕籠の店に押し入ったときに、歳三の見当がくるった。
(いかん。——)
難癖をつけに入ったのだろう。甲高く騒ぐ声が、ここまできこえてきた。
歳三は、路に出た。
そのまま、騒ぎを見すてて西のほう壬生へ歩きだしたが、足が渋った。
(内儀が、あわれだな)
しかし、今夜は、早く屯営へ帰りたいとおもった。なにもかも物憂《ものう》くなっている。酒がほしい。
歳三は、歩いた。
見当はついている。あの連中は、佐絵となにかのつながりがあるのではないか。佐絵が手引きをしたのではないか。そう思っても、歳三はふしぎと怒りも、闘志もおこらなかった。
——知れば迷ひ
知らねば迷はぬ恋の道
(われながら、まずい句だな)
歳三は、星を見あげた。
恋の道、と結んでみたが、歳三は、自分が果して恋などしたことがあるか、とうそ寒くなった。
|おん《ヽヽ》な《ヽ》はあった。しかし恋といえるようなものをしたことがない。かろうじて、想い出の中の佐絵の場合がそれに似ていたが、似ていただけのことだ。ほんの先刻、むなしくこわれている。
(おれはどこかが欠けた人間のようだ)
歳三は、自分へ、思いきった表情で軽蔑してみせた。
(この歳三は、おそらく生涯、恋など持てぬ男だろう)
それでもいい、と思った。
(人並なことは、考えぬことさ)
歳三は、歩く。
(もともと女へ薄情な男なのだ。女のほうはそれがわかっている。こういう男に惚れる馬鹿はない)
しかし剣がある。新選組がある。これへの実意はたれにもおとらない。近藤がいる。沖田がいる。かれらへの友情は、たれにもおとらない。それでいい。それだけで、十分、手ごたえのある生涯が送れるのではないか。
(わかったか、歳。——)
と自分に云いきかせたとき、歳三はくるりとふりかえった。
路上にしゃがんだ。鯉口を切った。
四、五人の足音が、自分を追ってきているのを知ったのである。おそらく、芳駕籠の亭主が、白状したのだろう。
影は五つ。
そのうち三つが、二帖半敷町の辻でとまり、二つだけが、無心に近づいてきた。
——こっちか。
一人が、他の一人にいった。
——とにかく室町の通りまで出てみよう。
が、彼等はそこまで出る必要はなかった。
数歩行ったところで、路上に蹲踞《そんきよ》している男を発見したからである。気づいたときには、ほとんど突きあたりそうになっていた。
「あっ」
男は飛びのこうとした。右足をあげ、刀の柄《つか》に手をかけた。が、そのままの姿勢で、わっとあおむけざまにころがった。歳三の和泉守兼定が下からはねあがって、男のあごを割っていたのである。
歳三は、立ちあがった。
「私が、土方歳三だ」
「………」
斬られずに済んだ他の男は、しばらく口をひらいたままこの現実が理解できぬ様子だったが、やがて、声にならぬ声をあげると、二帖半敷町の辻へ一散に逃げた。
辻の三人は、どよめいた。
そのときはすでに、歳三は、路上にいない。北側の家並の軒くらがりを伝って、辻に近づいている。
——たしかに、居たか。
この仲間の音頭をとっているらしい銹《さ》びた声がきこえた。
歳三は、とびだそうとした。が、土をつかんで、自分をとめた。
(七里研之助ではないか)
目覚めるような驚きである。七里が、京にのぼっていることも聞いている。だけでなく、七里らしい男が、河原町の長州屋敷へ出入りしているということは、藤堂平助も目撃した。げんに、七里の八王子での仲間の一人を、歳三自身、木屋町で討ち洩らしている。
「七里」
歳三の影が、物蔭から吐きだされた。
「おれだよ」
といったときには、歳三はすでに星空にむかって跳躍していた。すでにいっぴきの喧嘩師がそこにあった。もう、なんの感傷も低徊《ていかい》もない。手足だけが躍った。七里のそばの男が肩を右首のつけ根から斬り割られてころがり、その上をとびこえて、二の太刀が、七里を襲った。
七里は防ぐまもなく、辻行燈までとびさがって、やっと抜刀した。

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