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  父を思うと、ほんのり日本酒の匂いが鼻の奥によみがえる。日本酒は神様に供える神聖なものとされており、その新酒の季節がやってくると、酒の蔵元では軒に青々とした杉玉をつるす。 高校三年の冬、父が酒造りをしていた蔵のある福島県へ妹と二人で遊びに行ったことがある。洗浄する一升瓶の触れ合う音の中、父の案内で蔵を見せてもらった。

 私の身長の倍もある大きなタンクがいくつも並んでいた。タンクの中が見える所まで階段を上がると、父は言う。

 「醪(もろみ)は発酵が進むに従って盛んに泡を出すんだ。その音が聞こえるぞ」

 耳を澄ますと微(かす)かな音がつぶやいている。

 「あっ、聞こえる、聞こえた!」

 父は笑顔になった。思った通りの酒になる音、父はそのつぶやきと会話しているのである。

 蔵の一隅に父の部屋があった。専門書が並び、ここを中心に仕事をするのだと言う。初めて見る父の作業衣の白衣姿がまぶしい。蔵元の朝は早く、ゆっくり専門書をひもとく暇はないとのことであった。

 花巻市石鳥谷町は、「南部杜氏の里」といわれており、ここを中心として奥羽山脈と北上山地の間に広がる稲作地帯では、農家の後継者が農閑期を利用して全国に酒造りのため出かける歴史があり、それが後に、南部杜氏と呼ばれるようになったのである。

 近江商人によって岩手の酒造りが始まったといわれて三百三十年あまり、日本酒の文化は南部杜氏によって今も継承され、父もその中の一人であった。

 私が物心ついた頃、父はもう酒造りに携わっており、毎年父のいない正月を迎えた。秋じまいの後、カヤで南部曲がり家の北側を雪囲いすると蔵元へ行く。一度蔵に入ると酒を造り終えるまで家に帰ることはなかった。だから、父は郷(さと)の正月を知らないとばかり思っていた。だが、父は私たちの成長など、家の事は何でも知っており詳しかった。それは母の手紙からであった。母はきれいな字で父への手紙を書くと、私のランドセルのポケットに入れ、

 「農協前のポストに入れでけでなはん」

 とランドセルをポンと軽くたたくのであった。

 母は、祖父母と私たち姉妹を守り、男手が必要な仕事も一人でこなし、父のいない冬を季節の行事などで楽しませてくれた。

 そんな中で私たちは春を待った。友達の家に遊びに行くと、

 「啓子ちゃんの父さんいつ帰って来るの。お・み・や・げ何頼んだの?」

 とよく聞かれた。

 春休みも終わりに近い日、友達と石蹴りで遊んでいると、坂の下から久しぶりに聞く父の声がする。

 「おーい、啓子」

 「あ、父さんだ-」

 裏山でウグイスが鳴き、家族が全員そろうと、杜氏の里にも本格的な春がやって来るのである。

 お土産の父の造ったお酒をお隣に届けるのが、私の役目であった。生家の辺りは八戸南部藩の飛び地で、近所、どこの家でも酒造りに携わっていた。仕事を終えて帰って来ると、お互いの家族の無事を感謝して、それぞれの蔵元の自慢のお酒を交換したのである。

 頂いたお酒は来年の酒造りのヒントにと、父はお酒を口に含むと舌の上でころがし、「うん、甘口だな!」と一人ごちてゆったり味わっていた。食いしん坊で料理上手であった父は、外で気に入った酒のさかなに出合うと、家で試み母に伝授することもあった。

 父が四十八歳のとき、母は、突然彼岸に旅立った。父は留守を心配して酒造りをやめて家にいることを選ぼうとした。その潔さに未練はないのだろうか、本心はどうなのか尋ねてみると、

 「米作りの感性は酒造りにも生かされ、伝統ある日本文化の仕事は俺の誇りだ」

 人生の半分を家族と過ごすことのなかった父を、母の手紙が支えてくれたのだ。良い酒ができる。それは母との二人三脚のたまものであった。今度は、母の代わりに私たちが蔵元へ行く父を見送り、家を守った。

 妥協しない酒造りの道はそのまま父の人生観であり、それは時に頑固さとなって家庭に持ち込まれることもあった。が、農作業をしながら酒屋唄を謡うとき、それは解きほぐされていくのである。

 「酒造りには専門知識はもちろんだが、勘の鋭さや細やかさの中で、毎年、同じ仕事をしているつもりでも失敗することもあった」と母が亡くなってからも二十年続けた杜氏を振り返り教えてくれた。

 日本酒は「飲む宝石」といわれている。福島県以南で栽培される吟醸酒用の米、山田錦は五〇%余り削られると聞く。その米を私は見たことがない。けれど真珠のような米なのだろう。父は吟醸酒に力を入れていた。どこまでも淡い琥珀(こはく)色への挑戦があった。

 

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