「ひつじ雲」

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所属分类:日语随笔集

一面黄色く実った稲穂が秋風にさざめいている田圃(たんぼ)で、忙しく刈り取りをしていると、突然母が大きな声で叫んだ。「メエコの雲!」

 私は驚いて母を見た。頭の近くまで両手を上げ、仰ぎ見るように空を眺めている。ひつじ雲だ。青く澄んだ空には白い雲の塊が群れ、その一つ一つは、もこもこした毛で覆われた羊の形をし、悠然と連なっている。

 じっと空を見上げたままの母に、言った。

「空ばかり見てないで、手伝ってくれよ」

 すると母は、ぶっきらぼうに言い返した。

「わたし、先に帰るから」

 行動までおかしい。こんなことは今までにないことだ。やはり呆(ぼ)けの兆候だろうか……。

 ガスコンロの火を消し忘れ、電灯も点(つ)けっ放し、水道の栓も閉め忘れるなど、最近特に多い。注意すると「はい、分かりました」とはっきり返事をするが、その後また繰り返す。

 後(あと)2、3年で定年退職する私は、いろんな地方の町並みや自然を見て歩くのが、今から楽しみだ。しかし、介護が必要となれば、母を一人家に残して出掛けるわけにいかない。不安が過ぎる。すると、家路につく母に、言い知れない腹立たしさが込み上げるのだった。

 『メエコ』は私が小学校2、3年生の時まで飼っていた羊の名前である。メエコの毛で母がセーターを編んでいたころの記憶が、糸車を回し毛糸玉に丸めたように大きく膨らむ。

 冬の授業参観時、担任の教師は同じ色合いのセーターを着ている私と母を見て、言った。

「揃(そろ)いのセーター、とても温かそうですよ」

 それは、青と緑の毛糸を交互に織り交ぜ編んだもので、母は照れくさそうに言い訳した。

「綿羊の毛糸、二色(ふたいろ)しか染めなかったし、面倒だから同じく編んでしまったのしゃ」

 私は横から口を挟み、得意げに言った。

「メエコの毛だも、ポカポカ温(あ)ったげぇよ」

 すると母と教師は互いに顔を見合わせ、くすくすと笑うのだった。

 母はメエコを連れ、よく田圃に行った。メエコはどこまでも母に従(つ)いて歩き、姿がちょっとでも見えなくなると、大きな声で鳴き続けた。そんなメエコをとても可愛(かわい)がった。

 私はデイサービスの手続きをした。

「わたし行きてぐね。まだ介護受けたぐね」

 77歳の母は顔を強張(こわば)らせ、頑(かたく)なに拒絶した。自尊心が承知しなかったのだ。「集まった皆と話をしたりお茶飲んだり出来るから楽しいよ」と説得すると、しぶしぶ応じた。

 デイサービス当日、母は朝早くからそわそわしていた。昨夜は眠れなかったのだと分かった。「行って来っから」と薄く笑って送迎車に乗ったが、足取りは重く寂しそうだった。その後ろ姿を見るに、母の気持ちを汲(く)むこともせず、惨(むご)いことをしたと自分を責めた。

 ところが、帰宅した母は嬉(うれ)しそうに話した。

「お風呂にも入ったし、皆とお昼を食べ、歌を歌ったり踊ったり、ゲームもして遊んだ。とっても面白(おもせ)かった。来週も行くからね」

 どうなるかと心配していたが、胸にすっと安堵(あんど)の風が通り、ほっと気持ちが晴れた。

 母は歌を口ずさむようになった。生活に張りがでたのだ。その健気(けなげ)な姿からは、今の自分を素直に受け入れて、生きて行こうと努力しているのが分かった。施設での皆との語らいやその日の生活の様子を喋る時の表情がとっても活(い)き活(い)きと弾み、笑顔が綺羅(きら)と光る。

 「随分、楽しそうだな。俺(おれ)もデイサービスに通うかなぁ」と冗談で言うと、母は先輩振(ぶ)り、世話役を買って出ようと張り切る。

 そういう母を見ていると、それは心配する私を気遣ってくれる母の思い遣(や)りにも思え、勝手な思惑でデイサービスに通わせることにした私自身が、また無性に情けなくなった。

 「生きるということは、自分を支えてくれる人たちのために生きる、生き方をいうのだよ」と私が勝手気ままな生活をしていた学生の時、母から叱責(しっせき)されたことを思い出した。この先、母の介護に思い惑うことがあっても、母の言ったその生き方こそ、私の生き方にしなければならない、と心に決めたのだった。

 ある日、近くに住む伯母にメエコの話をしたところ、意外なことを知らされた。

 母は私を産んだ後、何度も流産を繰り返し、その悲しみを癒やすかのように羊を連れて田圃に出掛けた。楽しそうな足取りは悲しみであり、微笑(ほほえ)みは涙だったのだという。

 私はその話を聞いてはっとした。あの稲刈りの時、空を見上げて叫んだメエコの雲とは、母が若いころの感傷だったのだ。母はひつじ雲に、来(こ)し方(かた)の遠い日々の思いを馳(は)せ、旅をしていたのだ。それと気付かない私は、母の心の内を気遣う情緒の欠片(かけら)さえもなかった。

 母は、まだまだしっかりしている。要らざる心配をしてしまったと一人、苦笑いした。

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