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 夫の遺影は三十代のままでモノクロ写真だ。その横で六十才の私はウエディングドレス姿で笑っている。夫の三十三回忌と私の還暦が重なり、約束を果す日をこの日に決めた。三十七才で夫が急逝した時私は二十八才、長男は六才になったばかり、二男は二才の終り頃だった。たった七年間の夫との生活は若かった私には苦難の日々であった。七年の間に六回の転居をし、四畳半から始まった生活は序々に広い所に移ったり、夫の失業でトイレまで共同のアパートに戻ってしまった事もあった。夫が失業中は子供を夫に預け私が酒場で働いた事もあった。昭和一桁生れの夫には耐え難い屈辱だったようだ。男は妻子を養うものとしていた時代の人は自分の腑甲斐無さに押し潰されそうになっていたようだが、その気持ちを理解したのは二十年以上も経ってからだった。 子供が寝付いてからの二人だけの時間は、夫はいつも優しかった。何度も私に言った事は

「子供が生れてしまったけど、結婚写真だけは撮ろうな」

 であった。十才近くも離れた妻に花嫁衣装を着せたかったのだろう。私はそれ程重要な事と思っていなかったから「うん」と言うだけだったが夫は何度も言うのだった。花嫁衣装は一生の間に一度だけ着る物。だから着せたかったのかもしれない。結婚して五年が過ぎた頃、私達は居酒屋を開くまでになった。やっと貧しさから解放され夢に向って歩き始めた。店は繁盛し、あれもしたい、これもしたいと夢は膨れていった。だが、夫の死は余りにも突然やって来た。脳の血管が切れ、一言も話さないまま六日後に冷たくなって私の元に帰って来た。朝出掛けた時の作業服は畳まれて夫の香りを残したまま戻って来た。夫の胸は厚いままだ。その胸に身体を押し付け、温めたら生き返るのではと、一晩抱き続けた。子供の存在さえ忘れていた。

 就学前の子供二人を二十八才の私が一人で育てる本当の人生が始まった。哀しんだり、思い出したりする余裕は無かった。幼い二人は何かが起った事は解っていただろう。しかし「パパ」を口にする事は一度もなかった。死がどんなものか理解出来なくても、もう居ない事は解っていたのだろう。夫と一緒に六回も転居したが、今度は母子三人で賄いなどしながら流浪の日々となった。

 子供が一人、二人と巣立ち一人になると、やっと夫との生活を思い出したり、遺影や墓の前で会話をするゆとりが生れた。昔のアルバムを開き、子供が小さかった時の写真をみて夫との約束を思い出した。

「子供が生れてしまったけど、結婚写真だけは撮ろうな」

 そうだ、六十才になった時、三十三回忌の時結婚式をしよう。写真だけでいいのだ。花嫁衣装の揃った写真館を捜した。その写真館は大小様々な衣装に様々なティアラ、ブーケも沢山有った。なにしろ六十才なのだ。袖の有るドレスを選んだ。仕度部屋で美容師さんが髪を結い上げ化粧をしてくれた。満足だった。夫にもモーニングを着て欲しかった。私は夫を抱くようにしてカメラに納った。

「貴方約束守ったよ」

夫は

「いい年して」

 と苦笑いをしているように見えた。あれから四年が過ぎた。夫の姓を名乗って四十二年が過ぎ、その中のたった七年間は私だけの大切な追憶としていつまでも暖め続けたいと思っている。

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